彦根藩士の次男として東京に生まれる。旧姓は田中、名は八十八、後に東作。字は子暘、号は東嶼、翠雨、老鶴など。政治家、書家。日下部家の養子となり、太政官大書記官まで至るが、明治12年(1879)に官を辞し書家に専念した。 書ははじめ巻菱湖を学ぶが、楊守敬の来日後は北碑を研究して六朝書の祖となり、近藤雪竹、比田井天来、丹羽海鶴などの名家を輩出した。鳴鶴流とよばれる隷、楷、行、草のいずれにも卓越した技法により、数多くの碑文を揮毫した。『談書会誌』、『書勢』を刊行して書の啓蒙に努めた。